2007-03-27

ポリアンナ効果

先日から紹介している中沢新一に加え、梅田さんの話や、小宮山さんの例を引き合いに出すまでもなく、人は肯定的な評価を好む。これを「ポリアンナ効果」と言うそうだ。エリノア・H・ポーターの人気小説の主人公「ポリアンナ」からとられており、おとうさんに教えてもらった「よかった探し」でなんでも喜ばしいことを探す肯定的評価の代名詞だ。これを標榜する人には自らを反対の性格という人もいるが、それだけ社会的に否定的評価が好まれず否定的評価が否定的に(すなわち肯定的評価に)意識されている証でもあるのだろう。誤解を避けるために付け加えれば、ここでは、なんでも「そうだ、そうだ」という人たちのことを話題にしている。別の言い方をすれば「他人志向型」。
クリス・マクマナスの「非対称の起源」を読んでいると、左利きの人に対する過去の社会的偏見は相当強烈であったようだ。1950年から1961年までアンケートにより実施した「言語の土地台帳」という英国リーズ大学の調査では、(質問者は片方の手を見せて尋ねる)「何にでもこの手を使う人のことを〇〇と呼びます」という質問に左手と右手の間にはびっくりするほどの違いがあった。(大半が60歳以上の)聞かれた人のほとんどが、右手を使う人のことを右利きと呼ぶだけなのに、左手の場合には全部で87もの呼び方が記載されているのだ。
これらのことは、同書にも述べられているが「烙印」といういまわしい概念によって社会学的には解釈されている。そしてセンシティブな言葉による表現は、現代の社会では本人がそう感じれば、もしくはそう思えばその言葉は否定的表現となるという解釈が市民権を得ている。これがはじめに述べた否定的評価が否定的に意識されているということの背景にあるのだろうと思う。
これらは、倫理的なものというよりも、私には何というか息の詰まりそうな話である。なにか正しさというものをはきちがえているような気がしてならない。付和雷同を排し、主体的意見を尊重するといえば聞こえはよいが・・とりあえずという判断にすぎず、熱くなって噴出してくる自分の意見ではないところが寂しい。

2007-03-24

信ずるところを進むということ

梅田さんの記事と、対談した小宮山さんの卒業式告辞をみると同じことを言っている。「信ずるところを進む」ことの重要性だ。そして、梅田さんのBLOGへの反響を見てもおそらくこれは大半の人が(とくに日本人が)賛同する精神的な対峙の仕方なのだろう。
私は、この双方の話を見ていてこれは技術者の世界の話ではないか、あるいは企業でいえばメーカーの話なのではないかという気がしている。戦後の60年間、日本の科学技術研究に関する評価の体制が特に硬直化しており、地道な研究はなかなか評価されにくい土壌があった。これがこの二人の話の背後にあるのではないだろうか。大学という組織、大企業の組織の中で個人の研究や開発意欲を削ぐさまざまな障害が多数あったことと無縁ではないだろう。特に指導的な立場にある教官の権威は絶対だったのだろう。インターネットの時代になって、今世紀に入ってから、欧米の特に米国の個人主義的な自由な研究の空気が充満してきてはじめて、これまでの研究のやり方では窒息すると誰もが感じるようになったのだろう。そういう意味ではこの二人の感覚を否定するものではない。
ところで、そういった歴史の背景を勘案しても、小宮山さんの告辞にある二つ目の話、俯瞰するということのほうが私には一層重要に思える。自らの位置を確認し、定位することだ。これは素直な性格と他人の話をどれだけ理解するかという社会的センスが問われる。身近な指導教育がなければちょっとしたこともわからない。しかし、少し様子が分かってくると、どうも真理は別なところにあるのではないかという疑念が沸いてくる。これまでは情報のソースが限定的だったのでなかなか障壁を突破できなかった。書物や論文ではスピードが限られていたといえるだろう。大量の書物を読んでいても著者の言いたいことをどれだけ真剣にわかろうとしているかという努力にもよったのではないだろうか。
日本の産官学の研究現場ではおそらくこれらの情報障壁のことは誰しも直感的には問題だと従来から気がついている。しかし、日本の社会の研究や開発の構造が情報の横の連携を許さない構造であったということなのだろう。現在はインターネットの時代になって、全ての知識が全世界同時にフラットに共有されるという驚異のニューロンもどきの人類の頭脳統合が実現しているのだ。われわれはその頭脳の真っ只中にいる。アイザック・アシモフが40年以上前に「ミクロの決死圏」として描いたSF小説は今現実になっているのを誰も気がついていないのだろう。我々はまさしく神経腺維の中に生存しているのだ。すなわち、その気になればわれわれは全世界の必要な知識を相応の確実さで入手できる状況にある。

2007-03-08

偉人の旋毛曲り

寺田寅彦は偉人のつむじ曲がりということで「科学上における権威の価値と弊害」を論じているが、これを読んで先日の中沢新一の議論を思い出した。結局、科学はつむじ曲がりが輩出してそれまでの権威を否定することで一層科学らしくなっていったと言えるだろうが、中沢であればこれは単にバランス感覚を回復する正常な反応があらたなものの見方をもたらしたにすぎないと言うのではないかと思った。偉大なつむじ曲がりはそういう意味では無意識にバランスをとる天才だったともいえるだろう。

2007-03-06

勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き

中沢新一の「対称性人類学」によれば、対称性の論理にもとづく社会では「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」といったタイプの人々に対し警戒心を抱いていたと記述されている。その人たちは自分が獲得した富を、自分のために蓄積し、自分のためにだけ消費しようとする傾向があったからだ。神話ではこういう人々を貪欲な動物に喩えて、軽蔑する話がたくさんある。そして対称性の社会の倫理は必死にこの「勤勉で賢くてわけても倹約なえり抜き」たちの出現を抑えようとしてきたが、資本主義の本格的な稼動が準備された12世紀~13世紀の西欧社会では、あらゆる抵抗をはねのけて、蓄積のための生産や交易をめざす「勤勉な」人々の活動が浮上してくるのを、もう誰も抑えられなくなっていたというのだ。本源的蓄積は実際暴力的手段を通じて実行され、贈与経済のもたらす暖かい共同社会に生きてきた人々は自分たちの住んでいた土地から追い立てられたと分析されている。
そしてまた、中沢は西欧哲学の本質は形而上学であると批判してハイデッガーを引き合いに出し、形而上学からの脱却を目指すべきだと主張している。すなわち、人間はたしかに理性的生物であるが、だからといって必然的に形而上学的生物であると決めつけるのはまちがっている。カントが言うように、形而上学はたしかに人間の本性に属しているだろうけれども、そういった本性があまりに支配力を拡大しすぎると別の理性が働いてきたこともまた真実である。人類はこの意味で進歩したのではなく、形而上学の本性を全面的に発達させ始めたにすぎないのではないかと問うているのだ。